Berkeley
今日の映画は、羽田澄子さんの「早池峰の賦(はやちねのふ)」(1982年)でした。
以前この日記で、羽田さんの監督としての手法が日本料理のようだと書いたことがありますが、今回改めて気がついたのは、彼女の対象に対する深い愛情です。それが個々の作品の最大の魅力になっています。
この映画は、岩手県の早池峰山に生きる人々を描いたドキュメンタリーです。「南部の曲がり屋」と呼ばれる茅葺の民家が取り壊される映像から始まっ て、時代の移り変わりの中でも古く山伏(修験者)たちが伝えたとされる「早池峰神楽」を守りながら、農作業や山仕事をして生きる人々の生活が淡々と描かれ ます。3時間という大作ですが、折口信夫がかつて歌に詠んだように、闇の中の神々がうごめいて生きているようで、濃密で幸福な時間でした。まさに民衆の 「サブシステンス」を見事にとらえ切った大傑作です。
山の女神への信仰を背景とした、しかも生活に根付いた芸能としての舞を長く見るうちに、自分が信じていた「宗教」や「生」、あるいは「芸術」や「身体」、「ダンス」というものが、いかに歴史や自然環境から分断されたものであるかに気づかされます。
古民家を博物館で見学し、神楽をデパートの特設展で観るわれわれの「生」とは何であるのか。このミクシィの日記もそうですが、個々に分断された経験や風景がいくら積み重なっても、それは真の「生」とは程遠いのではないか。そういうことを考えました。
近代化や開発、グローバル化と、人間の「生」の葛藤。いいとか悪いとかではなく、その葛藤や闘争そのものの痕跡を見つめ続けること。まずはそこに理性や知性の居場所があると思っています。
今ぼくは家族と離れて単身でバークリーに来ているわけですが、家族とのコミュニケーションはもっぱら「スカイプ」です。
そういう人は世界中にきっとたくさんいると思います。
ぼくの日本の自宅では、スカイプをする共用パソコンの場所は食卓を一望できる位置にあって、ぼくはアメリカに居ながら食卓の様子も見ることができます。
ただ、これは少々おかしなところがあって、子どもたちと話している時はいいのですが、時々ぼくがただ誰もいない家の食卓を呆然とながめていたり、 家族が食事をしている間、待たされたままそれを見ているということが起こって、何だか自分がまるで「仏壇」の中にいるような気持ちになる時があるわけで す。
彼らにとっては、気が向いた時に、「アメリカのお父さんを呼びだしてみよう!」という感じなので、パソコンの画面はまさに家の外の世界につながる 「場」として位置づいているわけです。しかしこちらではパソコンの画面は見慣れた自宅の中であるにもかかわらず、触れることも、画面から出ることもでき ず、家族の平和をただ眺めているというわけです。ぼくは別に仏教徒でもないのですが、「死んだあと、仏壇から家族を眺めている気分というのはこういうもの なのかなああ」とよく想像することがあります。
画面に写っているぼくをよそに、背中を向けておいしそうにご飯を食べる家族。
それは経験したことがないと分からないぐらい、本当におかしな経験なのです。