Berkeley

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「裸の島」と「殺しの烙印」

2008年11月08日18:13

今日の夜は、新藤兼人監督の「裸の島」(1960)と、鈴木清順監督の「殺しの烙印」(1967)を観ました。

結論から言いましょう。

「殺しの烙印」は、観るにたえないクソのような作品でした。2008年の今観ると、ただ、ただ、気恥かしい映画です。その「気恥かしさ」を楽しむ 高尚な観方もあるのでしょうが、不器用なぼくは、ただ力なく苦笑することしかできませんでした。ぼくの前に座った軽薄そうな白人が、ゲラゲラ下品に笑って いたのも、何だか神経にこたえました。

かつて日活の社長がこれを観て、鈴木監督をクビにしたそうですが、ぼくが社長でも必ずクビにします。まず、お金の無駄だからです。本当に初めて、 「金を返せ」と思いましたし、実は最後まで観れず、人生で初めて劇場を出てしまいました。ハッキリ言って、日活ロマンポルノの傑作を流したほうがずっとよ かった、と思いました。とにかく中途半端、猿まね、深みやリアリティのなさ、歯の浮くようなセリフ、宍戸城の頬のふくらみのように、情けなるほど軽薄で チープな作品です。死んだ小鳥や女優さんのせっかくの裸も、本当にかわいそう。無残な映画です。

しかし、これがぼくが生まれた日本の60年代の素顔だったのかもしれません。この作品を、この地球上に今でも評価する人が本当にいるのだろうか、 と思い、家に帰ってネットを調べてみましたが、高い評価がけっこう多くあるようで、驚きました。しかしどの評論を読んでも、「そうか!」と腑に落ちるもの はありませんでした。ただ、その過程で、60年代の子ども向けの劇画などをYou Tubeで久しぶりに観ることができ、そのどれもが至って同じように「チープ」であることを再発見しました。

子どものころ、あれほど真剣に観ていた作品のほとんどが(もちろん数少ない例外はありますが)、今観ると本当に「チープ」であるという現実。「ぼくは子どものころ、だまされていたのかもしれない…」とも感じたくらいです。

一方、「裸の島」は、最後の最後まで、セリフらしいセリフは一切存在しない映画です。瀬戸内海の孤島に生きる家族の一年の生活を、ただひたすら土 にまみれた労働と顔の表情だけで描く作品です。この映画ができた1960年は池田隼人が「所得倍増」を叫んだ年ですが、もちろん地方は取り残されていまし た。夏の乾いた孤島の土を潤すために、対岸の水を汲み、それを船で運び、それを干からびた作物に手桶でひたすらふりかける毎日。それが延々と続きます。セ リフはないのに、家族が食事をするシーンでは、思わず涙があふれてきました。

画面は白黒ですが、信じられないぐらいみずみずしい映像です。一言もしゃべらない乙羽信子の美しさ。そしていちばん美しいのが、瀬戸内の四季を通 じた風景。子どもの死すら祝福されるかのような、営みとしての自然。民衆の「サブシステンス」の概念を学生に伝えるにはこの作品が一番いいと気がつきまし た。まあ、少し「土」の論理に寄りすぎて、人間のリアリズムが欠損している気もしましたが、今観ても古びないどころか、むしろ真の「新しさ」すら感じまし た。これぞ傑作です。

ハンバーグをつくるのに、玉ねぎを電動のカッターで「処理」するアメリカ人には、この映画は観ているだけでまさに苦痛なだけかもしれません。終 わった後も拍手が起こりませんでした。前近代社会や封建社会に関する退屈な作品だと思ったかもしれません。しかし、今世界がおかしくなっているのは、「経 済」がきわめて軽薄になって、たとえば金融や投機などがいちばん大きな顔をしているからです。「お前たちこそ、この映画をよく観ておけ!」という気分で す。

勤勉な日本人。しかしその「勤勉」という、資本主義を基底で支えた文化は、はじめは根が生えた、とても土臭いものであったということ。しかし、ぼ くが生まれた60年代の日本では、その土臭さが、だんだんと軽薄な「夢」へと転化していったのではないか。「殺しの封印」が、今、ハードボイルドを気取っ た単なるコメディに見えるように、ぼくが生まれた60年代は、時代自体が笑えない喜劇だったのではないか。

そういうことを考えました。