Berkeley
「年金テロ」のニュースを知り、日本では民衆の声や願いは、もはや散発的な「テロ」という形でしか表出しなくなっているのか、と思いました。
この前の秋葉原の「テロ」はもう誰も言及しなくなったようですが、ぼくは同じ構造を感じます。行き詰った何かを、まるで風船がはちきれるかのように瞬間的に暴力という形で表出させる、そのありようです。
先日、「リアリティ・ツアー」と皮肉の利いたツアーを企画し、麻生首相の豪邸を見に(しかも事前に警察の承認まで受けて)歩いていこうとした集団 のうち、いきなり三名が不当逮捕されたというニュースもききました。その映像は、広くYou Tubeなどでも公開され、「公務執行妨害」というのが明らかにでっち上げであったことも知られています。
ぼくは「テロ」が起こる背景には、民主主義の不足があると思っています。デモや集会の自由すら許されない「治安国家」では、民衆の普段の思いや声 が、公的な空間にうまく接合されず、ひたすら個別に内向してしまいます。健全な民主国家では、言論による政治の習慣が定着している、すなわち、民衆が普段 の討論や活発な表現活動によって孤立せず、参加意識や連帯感を醸成しているために、むしろ、思いつめたこのような極端な暴力主義を抑制する傾向がありま す。「市民社会」の概念は、同時に非暴力の原理を内包しているのです。
ぼくは確信するのですが、このままの統治のやり方では、日本において「テロ」はますます増加していくでしょう。今必要なのは、国民や市民を社会に 接合し、民衆が政治に参加できる具体的な枠組みをつくり、参加と言論によって、自らが社会に改善を要求できるという「民主主義的信頼」を回復することで す。
そしてそれは、今の陪審員制度のように、単に権力機構に民衆を「組み込む」というやり方ではなく、自分の生きる社会や国家を、自分たちの「熟議」の力で、下から形成してゆくという真の「民主的」プロセスによらなければなりません。
日本には民主的希望が決定的に不足している。
「年金テロ」は、これから来る、日本テロ時代の序章です。