Berkeley
今日の大島映画は「日本春歌考」(1976年)です。
気持ちはわかる…。
というのが結論です。
大島作品は60年代半ばからさまざまな実験的な試みをし、新たな抵抗のあり方を模索していたのがよくわかります。
そして、彼のキーワードは、「性(セックス)」と「コリア(国境をこえること)」。
特に、民衆には「性の解放」しか道がないと言わんばかりです。
映画では「歌」がテーマなのですが、、伊丹一三演じる教師の言葉を借りて、軍歌でもなく、外来の左翼ソングでもなく、春歌、民衆歌こそが、抵抗の根拠になるのだという監督の主張が明確に出ています。
しかし、今観ると、正直、「空振り三振」というところだと思います。
現代で、「セックス」がどうして抵抗の根拠になるでしょうか。
「性」だけでなく、「生」自体が、完全に植民地化されている時代に。人間が実験室でつくられる時代に。
だから、下手をすると、このような試みは、ただのセクハラ映画にすぎなくなってしまいます。そもそも、春歌は本当に民衆の解放の歌なのか。ただ田 舎の男たちの欲望の解放のための歌なのではないか。炭坑から出てくる女性たちの太ももを男たちが触ることが民衆の解放とどう関係があるのか。思想や時代の 行き詰まりの鬱憤を晴らすために、バカ学生が女性を強姦することに何の積極的な意味があるのか。あの男たちの欲望に従順な「きれいな」女性たちは何か。あ まりに陳腐な図式ではないのか…。
率直に、ぼくの内側から浮かんできた疑問です。
検閲と闘い、あるいは、性=生の解放を目指すということは、気持ちはわかるのですが、やっぱり「空振り」です。今観ると、時代遅れというか、残念ながら、ただオヤジくさい下品な印象しか残りません。
そもそも今、本当にエロティックな映画作品をつくることが可能なのか。それは現代のすべての芸術にとって、もっとも重要な問いだと思います。そし ておそらくそれは、今に生きるあらゆる芸術家にとって、最大に困難な課題だとも思います。もう、時代や権力は、「愛のコリーダ」なんか、とっくに追い越し てしまっているからです。