Berkeley
テレビでも、道端でも、アメリカ人がけんかするのを見かけることがあります。けんかするといっても、単なる口げんかではありません。
「切れ」た二人が、取っ組み合いになります。
すると、必ずといっていいほど、その二人の戦いを止めに入る人が出てきます。
身体にしがみついて、両者を引き離します。
そしてやがて二人の周りには、それを見守る人たちも湧いて出てきます。中には笑って冷やかしたり、茶化したりする人もいますが。
激高している二人は、たいがい、その止めに入った人には危害を加えませんが、持って行きようのない怒りと、その高ぶる気持ちと、自分がいかに不当な扱いを受けたかを力いっぱいのジェスチャーとことばで、向こうで同じように抑えられている相手にぶつけます。
そして再度攻撃。。。
しかし、止めに入った人が、またずばやく胴体にしがみつくので、両者とも敵にたどりつくことができません。
そういうことを何度か繰り返し、やがてけんかは収束します。
両者は憤懣やるかたない表情であるにもかかわらず、しぶしぶともとの社会にもどっていきます。
驚くのは、けんかを仲裁する市民が、まるで、特殊な訓練を受けたかのように、見事にそれをやり遂げるという事実です。けんかが始まると、それぞれが、あらかじめ個々に与えられた配役を見事に演じているのではないかとさえ思えるほど、迅速に紛争解決のプロセスが始まります。
路上でけんかが起った時どうするか。とっさに身体に記憶された習慣が作動し、必要以上にエスカレートしないけんかが「上演」される。そういう風に 見えるわけです。つまり、けんかは、だんだんと一種の芝居になっていく。各人はその時、瞬時に自分の役割を自覚し、それを経験で培った身体で反射的に表現 する。ぼくにはそう見えます。
この前の仲介者は、なんと通りがかりのおばさんでした。若者の胴体にしっかりしがみついて、日本語で言うと「まあ、まあ、まあ」とやるわけです。 若者はその気になれば、おばさんなんか簡単に吹き飛ばすことはできたはずですが、そうはしませんでした。相当頭にきていましたが。
「自分は止められているから攻撃しないんだ(できないんだ)。やろうと思えば、あんなヤツぶちのめしてやる」と、周りの視線にも訴えているようにも見えます。まあ、それでけんかの時に一番大切なメンツも立つわけです。
そして、身体をはって止める人以外にも、「まあ、落ち着いて、暴力はやめようじゃないか、君の言い分は分かる、こんなことをやっても君に損じゃないか…」などとことばで説得しようとする人も現れたりします。
ぼくは以前、図書館や駅の構内で、日本人がけんかするのを見たことがあります。いずれも、「けんか慣れしていないなあ」と感じたのでした。まず、 通行人の中に、身体をはって二人を引き離す人がすぐには現れません。周りも驚いたまま、凍りついたようになります。どうしてよいか分からないからです。そ れから当事者も、けんかにルール(様式)が見られません。そのままほおっておくと、きっと殺すまでやってしまうのではないかというタイプのけんかです。日 本では、「切れる」ことと、殺人までの距離は実はあまりないように思えます。
ぼくはアメリカ人のけんかと、その治め方に「文明」を感じました。アメリカ人は、すぐに銃をぶっ放す野蛮なイメージがありますが、社会の中に、暴力や怒りをうまくコントロールする装置や仕組みがいろいろあるということに気がつきました。
日本人はまず、「けんかの方法」を身体で覚えなければと思います。