Berkeley
今日は、授業「日本の戦後史」の一環で、学生たちと黒澤明監督「わが青春に悔いなし」(1946年)を観ました。
意外にも、学生たちにはあまりウケなかったようです。
ストーリーや演出が、今から見るとナイーブ過ぎるということでしょうか。一人の女子学生は、「主人公は泣き過ぎる」と言っていました。
映画の回は大学院生が司会進行をします。大学の教員になる訓練でもあります。学生は協力的で、院生が質問をすると、積極的に意見を言います。それを微笑ましく見ていました。
さて、この戦後間もなくの、いわゆるGHQお墨付きの「民主主義映画」は、それでもなお多岐にわたる普遍的なテーマを扱っていて、みごたえがありました。
原節子が出演する映画は、小津安二郎の映画以外では、実は初めて観ましたが、後半の特高警察に尋問を受けて以降の彼女の顔は本当に美しいと思いま した。後半部分は、大学教授の「お嬢さん」から一変し、農村で闘う信念の人としての彼女の姿が執拗に映されつづけるのですが、そこに黒澤監督のメッセージ と気迫を感じました。
「自由は責任と苦しい犠牲とをともなう」という、リベラリストである父の主張、また、「悔いのない生活を生きる」という、スパイ容疑で殺される彼女の夫のことばが、戦前も戦後も彼女の魂にこだまします。
この作品は、京都大学の滝川事件、そしてゾルゲ事件をテーマにしているのですが、もう一つのサブテーマとして、日本における家族や農村社会の問題を扱っていると思います。
「リベラリスト」の大学教授のお父さんでさえも、戦前、政治的抵抗を唱える学生たちに「ご両親の気持ちを考えるとそのやり方はいいとは思えない」 と言ってしまうわけで、当時からずっと「家族」のイデオロギーが日本の権力支配と密接に関連していたことが暴かれています。だからこそ、主人公の幸枝(原 節子)は「家を出る」という行為によって、初めて本当の「自由」を獲得するプロセスに参加できたわけです。
幸枝が、最後のほうのシーンで、親孝行で優柔不断だったために戦時中に出世した元恋人の糸川に事実上の絶縁を言い放つシーンがありますが、それはそれは見事なシーンです。
明日は、「家族ゲーム」を観る予定です。