Berkeley
今日の「戦後日本」の映画は、森田芳光監督「家族ゲーム」(1983年)でした。懐かしの松田優作を久しぶりに堪能しましたし、何よりこの作品はまさに自分の育った時代を描いたものだったので、笑いっぱなしでした。
朝のコーヒーはインスタントコーヒー。
お母さんは狭い団地で暇があれば内職。
家が狭いので、外の車の中で話す夫婦。
金持ちの家にだけあるテレビゲームに、「受験戦争」。
そして「金属バット殺人」のニュース。
懐かしいものばかりです。
そのころ、自分が何を考えていたのかを思い出しました。
植物図鑑をいつも抱えた、三流大学七年生の変な家庭教師(松田優作)が、「問題のある」中学生の家にやってくる。その少年が唯一好きなのが、女の 子でもなんでもなく、ジェットコースター。いつも「すい臓が痛い」といって学校を休むが、母親は子どもの言うことをいつもききいれる。彼は小学生の時にク ラスでうんこを漏らしたことを人に言われたくなくて、同級生の「土屋」といつも反目し、けんかしている。志望高校も、「土屋」がいないところ、というのが 彼が最優先する要素。
どこか皆狂っている家族が、横に並んでいっしょに食事するシーンは、今ではとても有名です。どのシーンも誇張されていますが、当時の日本の姿をうまく描いています。
ぼくも何というか、偽りだらけの「世界」そのものを憎んでいたということ、それをいつも壊したい衝動を秘めていたということ、そういうことを思い 出しました。最後の方のシーンで、プロレスファンの家庭教師(松田優作)が父親にボディーブローをきめ、母親に空手チョップをし、食卓をひっくり返すシー ンは、「これはぼくが世界に対して密かにやりたかったことだったのではないか」と気がついてしまいました。
学生たちも笑っていましたし、討論の時間でも質問がたくさん出ましたが、ぼくがリアルタイムで感じていた「怒り」や「虚無感」がどれだけ今の学生に響いているのか、最後までわかりませんでした。彼らには遠い世界の昔々の変なお話しと映ったのでしょうか。
前回の「わが青春…」と比べて、もっとも異なるのは、そのエンディングです。「わが青春…」が明るい希望と覚醒に満ちて終わるのとは対照的に、 「家族ゲーム」は、どこかでヘリコプターの音が鳴る中で、家族がみんな午睡に落ちるという意味深なシーンで終わります。家族みんなが疲れ果てる。それはそ れ以後の日本も見事に照射したシーンだと思いました。
日本の80年代。ちっとも豊かじゃないのに「豊かになった」と喧伝され、しかし大人や社会が整備するすべての未来の約束は、どれもが偽物に見えた時代。ぼくの思索の出発点を再確認しました。
最近映画三昧です。新聞連載の催促を振り切って、映画館に行きます。
まるであの悶々としていた大学院生の時代にもどったようです。
今日の夜の映画は、大島渚監督「天草四郎時貞」(1962年)です。
私は小学校の時、子ども用の百科事典で「島原の乱」を読み、強烈な印象を持った記憶があります。それ以来、歴史の年号を覚えるのが苦手だった私で も、1637年という年号だけは忘れられませんでした。反抗した人々が兵糧攻めにあって、最後は海藻だけを食べてがんばったことや、鎮圧軍が兵の胃を切り 裂いてそれがわかったことなどが、鮮明に記憶に残っています。
安保闘争など、民衆の抵抗をテーマにし続けた大島映画が、到達するべくして到達したテーマであると思いました。また、黒澤映画のような人間へのリアリズムに貫かれており、今まで観た大島作品の中でも「飼育」と並んで一番迫力があったと思います。
歴史上、日本の政治権力がもっとも恐れてきたのは、キリスト教と共産主義に代表される、自立/自律的、かつ民衆的な強い原理・原則です。言いかえ れば、日本の権力は、社会や個人に強固な自立的原理がないことの上に居座ってきました。それは徳川幕府も自民党長期政権も同じことです。
私は、「非国民」なのかもしれませんが、その無原則で従属的な日本が大嫌いです。死ぬほど嫌いです。意味も分からず、幕府や西欧や天皇や上司に媚びへつらう精神を心の底から憎悪します。そしてそれこそが、日本人としての私にとって人生最大の<敵>であると思っています。
少年のころ、海藻だけを食べて戦い続けた人々の物語がどうして自分の記憶に強烈に焼きついたのか、理由はわかりません。でも、この歳になっても、この物語は自分の中心にある何かをざわめかせるのです。