Berkeley
今日の大島映画は、二本立て。
「太陽の墓場」(1960年)と「儀式」(1971年)です。
大島映画はいつも徹頭徹尾、社会的で批判的なので、観るのはちょっと疲れます。何というか、英語で言えば“demanding”な作品ばかりなのです。しかし、テーマがブレずに一貫しているので、爽快な印象も残ります。
「太陽…」のテーマは、一言で言えば、構造的暴力。
戦後日本の混乱期のスラムに生きる「弱者」たちが、結局はお互いに滅ぼし合うしかないという悲劇を描いています。売血で日銭を稼ぐ労働者たち。弱 者を食い物にするしかないチンピラや傷痍軍人たち。再び戦争が起こることにしか希望を見出せない人々というのは、現在でもどこかできいたことがあります。
戦後間もなくの日本は、もっと平等に明るかったのではないか、と思っていましたが、社会の最底辺にとっては戦前も戦後も同じだった、ということです。最後に一人ひとりの役者の顔をまじまじと映すシーンは、「技あり」でした。
次の「儀式」は、テーマから言えば、「飼育」の延長線上にある作品です。
日本の家族制度に潜むどす黒い権力の悪。
それは日本の支配層の悪、政財官界の悪と連結しています。音楽は武満徹。「満州から逃れてきたと思ったら日本にとらえられた」という冒頭のセリフがすべてを暗示しています。
この作品は、乳飲み子の自分の弟をやむをえず土に埋めて満州から引き揚げてきた主人公が、古い名家の家制度の中で破滅してゆく姿を描いています。主人公が花嫁に逃げられ、それでも祖父の言いつけで新婦ぬきの結婚式を執り行うシーンは、本当に見事です。
そうです。あの結婚式こそ、日本人の矛盾が凝縮して表現されているのです。この作品には、戦後日本を丸ごと抱え、全部に空手チョップを食らわせよ うとする気迫と野心を感じました。日本人がつくりだす人間関係の病という意味では、この作品は、その後のたとえば「犬神家の一族」や「お葬式」などの原型 なのではないかと思います。