From Niigata to the world新潟から世界へ
映画『プロミス』を観て
佐々木寛(新潟国際情報大学)
かつて、こんなに深く胸がしめつけられる映画を観たことがない。 このドキュメンタリー映画の前で、あらゆる陳腐な賞賛のことばは意味を失うように思える。
この映画の主人公は、「イスラエル・パレスチナ紛争」のただ中で生きる、ごくふつうの七人の子供たちである。
映画は彼らの日常の「素顔」と「ことば」によって構成されている。
われわれが日々テレビや新聞で知る「国際紛争」の姿が、いかに表層的でよそよそしいものであるのか、 「ファラジ」や「ヤルコ」「ダニエル」といった固有名をもった人間の肉声を通じてはじめてわかる。
イスラエル兵に目の前でともだちを殺されたファラジは、その兵士を「ズタズタに切り裂いて殺したい」と語る。
双子のヤルコとダニエルは、テロが怖いので一八番のバスには決して乗らない。
入植地に住む、旧約聖書の愛読者モイセは、 将来イスラエル軍の隊長になってエルサレムからアラブ人を全員追い出したいと思っている。
こういう子供たちの意識や表情の細部にわたる描写が、かえってこの紛争がもつ真の全体像を浮き彫りにする。
映画に登場する子供たちはみんな、生まれたときから、宗教、歴史教育、政治、軍事のただ中で生きなければならない。
境界と検問所に囲い込まれた相互不信の世界に閉じ込められて生きなければならない。それがどのような日常空間であるのか、 映像ははわれわれの想像力を越えた「現実」をつきつける。
もちろん、この映画を観て、われわれの「平和ボケ」を再認識することも可能であるかもしれない。
しかし、この映画はそんなことを越えて、むしろこの「平和ボケ」というわれわれの常套句が、実はいかにボケたことばであるのかを気づかせてくれる。
しかし、この映画のテーマは、希望である。人間が憎しみを克服するための希望はどこにあるのか。
復讐心とナショナリズムでがんじがらめになった心はどのように人間をとりもどすのか。
西エルサレムに住むイスラエルの少年たちが、デヘイジャ難民キャンプのパレスチナ人の少年たちに会いに行く「約束」をする。
たったそれだけのこと。子供たちは大人たちがつくった「境界」を越えてともだちの家に遊びに行く。
ともだちの家に行ってお母さんの料理をいっしょに食べる。サッカーをする。時間を忘れて一日中遊ぶ。
子供にとってはごく当たり前のことだ。しかし、この当たり前のことはたった一日だけしか許されない。
この映画は、和平プロセスが進んだ一九九七年から二〇〇〇年にかけて撮影されたという。
和平が完全に崩壊しつつある今、彼らはそれぞれどのような思いで日々を送っているのだろうか。
しかし、「ほんの二〇分と離れていないところ」に住んでいながら、 まったく別の世界に生き、憎しみあわなければならないという「彼ら」の現実は、 実は現在の「われわれ」が生きる世界の現実でもあるのではないか。
憎しみと暴力の論理が優位になりつつある世界の中で、この映画の試み自体が一条の希望であり、 この映画を観ることは、その希望のプロセスに参加することでもある。