新潟国際情報大学 佐々木寛 研究室
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From Niigata to the world新潟から世界へ

「暴力」を包囲する――なぜ学問は越境しなければならないのか

(小林直樹『暴力の人間学的考察』(岩波書店)2011年)

「3・11」の巨大な破壊力は、広大な「死の街」を無数につくりだした。その見渡す限りの悲惨の前で、私たちは依然としてただ茫然と立ちすくむしかない。自分には何ができたか、また何ができなかったのか、いまだ苦しみつつ自問自答する無数の人々がいる。そして学問もまた、それが自立的で真摯なものであろうとすれば、みずからの存在理由とその明らかになった限界についての内省へと向かわざるをえない。原子力発電所の事故がもたらしたとりかえしのつかない生命破壊は、特に分業化と専門化を旨とする現代科学の在り方そのものに大きな疑問をなげかけた。そこで提起されたのは、既存のシステム内で細分化された役割をこれまでのように担うだけでは、私たちはもはや人類的・社会的な責任を全うできなくなっているのではないか、という根源的な問いである。学問も社会も、今、人類的課題に立ち向かうための、新しい包括的な思考枠組を必要としている。

その意味において、本書は、おそらくこの「3・11」以後の文脈で読まれるべきである。「人類の深刻な境位は、眼の前の小状況しか見ない視野狭窄のリアリズムでは、到底切り拓くことはできない」(二五七頁)と宣する本書は、DVや拷問、犯罪からテロや核戦争に至るまで、歴史上のあらゆる「暴力」と対峙しながら、まさにそうであるがゆえに、既存の学問領域をどんどんと越境してゆく。本書の特に前半は、「暴力の総合カタログ」とでも言えるほど、考えうる限りの多種多様な「暴力」への接近と把握が試みられるが、その行間から溢れ出てくるのは、一重に著者の暴力廃絶への飽くなき情熱である。

そして、こういった多種多様な「暴力」への肉薄は、本書のタイトルにもあるように、まさにそれを生み出す共通項としての「人間」そのものへの考察と切り離すことはできない。「暴力」の解明とは、すなわち人間存在そのものの解明に他ならず、また逆に「人間存在の正確な認識には、暴力を中心とする人間の暗黒面を見定める必要がある」(三一六頁)。本書のもっとも重要な指摘は、人間がその本性に基づいてつくりあげた「文明」が、逆に甚大な「暴力」として人間を苛んでいるというパラドクス(「文明の逆説」)である。「文明」とは、そもそも野蛮な「暴力」の克服を意味したはずであった。しかし、その「文明」が生み出した科学技術や人間の欲望の肥大化によって、「暴力」は極大化される。「暴力」は、単に多種多様な現象であるだけでなく、人間存在や「文明」に内在的なものであり、したがって人間の精神や社会が歴史的に「進化」するにつれて変容を遂げるものでもある。

こういった多様性や可変性、内在性や両義性を同時に帯びる「暴力」という巨大な対象を前にしても、本書はまったくひるむことなくこれに立ち向かう。著者は、何よりも法学者として、「暴力」を体系的かつ総合的に統御するもっとも現実的な方法が、それに対抗する「力」ではなく、法=制度によるものでなければならないとし、結論として、「現代立憲制(国際的には「国際的立憲主義」)の再構築」という方途を指し示す。この法学的思考は、他の多くの「暴力論」と比して本書がその特長とするところである。このように、「暴力」を、まさに総合的な認識の力で包囲しようとする本書の果敢な試みは、それ自体、切迫した人類的課題への真摯な知的探究によって必然的に生み出されたものであり、しかもその結果、今後の来たるべき学問の真の姿を予感させるものとなっている。

ただ、課題も多い。本書の人間学的アプローチのように、「暴力」をあくまで「人間の条件」として位置づけた場合、現代世界で生起する個々の「暴力」は、どこまで主体の問題に還元できるのだろうか。異常犯罪は、どこまで個々の犯罪者の異常性に帰せられる問題であるのか。「暴力」を生み出す精神と制度、「暴力」を抑制する精神と制度との関係は、相互にどのようなものなのだろうか。また、小社会の暴力は世界暴力とどのような関係にあるのか。ルワンダの内戦やテロルは、国際的な政治構造とどのような関係にあるのか。言い換えれば、個々の暴力現象は、「構造的暴力」とどのような関係があるのだろうか。そしてそもそも、「構造的暴力」とはいったい何を意味するのか…。

本書でも取り上げられる政治哲学者、H・アーレントの「暴力論」では、道具(テクノロジー)の論理と歪んだ理性に彩られる現代の「暴力」に対峙させられるのは、対等な人間同士がことばを媒介にしてつくりだす「権力」である。ここには、「暴力」の克服のためには、個々の目覚めた精神や卓越した法や制度よりも、まずは人と人とのつながり=「人間」が回復させられるべきであるという含意がある。そして、それは決して、「伝統的な国家論や政治学のとる、ごく普通の見解」(二一四頁)ではない。七変化する「暴力」という怪物のハラワタを掴み出し、それを克服するための方途を見出すためには、人間の精神と社会制度の相互作用とダイナミズムを丸ごと理解しようとするこのような政治的思考が不可欠である。

著者によれば、本書に続いて『欲望論』と『感情論』が刊行予定だという。それがもし、このような「暴力」の動態的把握に歩みを進めているとすれば、それはより包括的な人間理論=社会理論として、さらに新しい地平を切り拓くと思われる。

佐々木寛