学報98号
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学長式辞卒業式自分で考え、判断し、後悔する「解釈する主体」であり続けよ本日はご卒業、おめでとうございます。このようなおめでたい場ですので、本来であれば「はなむけの言葉」を皆さんにお伝えするべきでしょう。でも「はなむけ」というのも変な言葉です。漢字で書けば「贐」というパソコンでなければ書けそうにない難しい字です。本来は「馬の鼻向け」から来ているそうで、お祝いなのか馬鹿にしているのかよくわからない言葉です。そういう微妙なニュアンスに対して、さすが優秀な文人は反応しています。たとえば紀貫之の『土佐日記』には「舟路なれどもはなむけす」という有名なフレーズが出てきます。でもそんな駄洒落のようなことを言っていてもしょうがないので、大学を卒業するみなさんに何を伝えるべきか、この数日考えていました。そしてその数日の思考の結論としては、ただ生きていればいい、ということです。何があろうと生きてさえいればいい。それだけで十分です。そう考えた理由について少しお話ししたいと思います。これも正直に言いますが、僕は学生のころからいわゆる人生啓蒙書というものが苦手でした。「男が二十代でやっておくべきこと」とか「できる女の十の習慣」とか。そういう本からは距離を取りたいというか。あるいはそういう本を読んでいる人を馬鹿にしたいというか。だいたい人生って啓蒙されるべきもなんでそういうことを考えてしまうか。それは自分自身の実感からくるものです。学生のときには面白いと思った科目がつまらなかったとか、いやいや受けた授業が面白かったとか、そんなことはいくらでもありました。ですから仕事に関しても、望んでいた職業についてはみたもののまったく面白くないとか、不本意ながらやらされた仕事の日々が結果的には充実していたということもいくらでもあるのも当然です。また世の中は本当に運、不運ということも大きく、たまたまその場所にいたからそうなった、みたいなこともいくらでもあります。要するになるようにしかならないんですよ。となると自分の人生を「啓蒙してくださる」書物ってなんだろうということになるんですね。そういう世の中の複雑さというか、そのようなものに気づいてしまうと、とてもじゃないけれど「だれでもわかる成功の秘訣」みたいなものが非常に胡散くさく見えてしまいます。それと同じで「陰謀論」などについても「ああこれは世の中を単純に見たい愚かな人たちがすがるもの」だということに気づきますし、「論破しました」というような物言いも、じつは何も考えないことと同義であるとわかってしまいます。陰謀で説明できるほど世界や社会の現象は単純ではないですし、論破できるような問題は最初からたいした問題ではないのです。現在のコロナ禍やウクライナ紛争を見れば、いかに社会が複雑で錯綜した価値や論理で動いているか、よくわかると思います。そういう複雑で怪奇な現実があるからこそ、そのなかで生きている私たち人間が完全のなんだろうか、そもそも啓蒙ってなんだ。そういうことをついつい考えてしまうわけですね。であるはずもないでしょう。世の中は問題だらけだし、人間の能力には限界があります。そもそも人間ではない神でさえ完全ではないのかもしれません。神が創造主で完全な存在なら、なぜこんな不完全な世界を作ったのか、というのはあらゆるまともな宗教が直面せざるをえない大問題です。ことわざにいう「神は自ら助くる者を助く」というのは、実は非常に人間主義的なものであって、それは「神はなにもしない」「奇蹟は起きない」という宣言でもあります。その先は宗教によって違いますし、僕は無神論者で、本学も宗教系大学ではないのであまり深入りするつもりはありません。ただその宣言が人間に命じていることはまちがいなく「自分でものを考えろ」ということです。生きている各自がものを考えるのです。その意味では「解釈する主体」であるということです。これはまた最近の「それはあなたの感想でしょ」といっただけで何か相手を論破したかのように見せる愚劣な物言いとはまったく異なるものです。それでは解釈とはどういうことでしょうか。昔読んだある少女マンガにとても印象的なシーンがありました。近代初期のヨーロッパで貧しい行商人の一団が生まれたての赤ん坊をある町に置いていかざるをえなくなります。そして彼らは赤ん坊の名前を書いた紙を小銭とともに小さな袋に入れて赤ん坊の首にかけ、その町を去ります。そのコマに書かれていた言葉は「その額の少なさは彼らの生活の貧しさを語り、その額の多さは置いていった子供への彼らの情愛の深さを表していた」というものです。これは同じ事実でもそれをどう考えるかということが大事だということを示しています。その感動的なコマを揶揄するのはよくないのですが、例えば逆も言えますよね。「その額の少なさは彼らの無責任さを、その額の多さは彼らの生活の余裕を示している」とか。そのように書いていないということは、この少女マンガ家がある判断を下しているということです。事実を解釈する人間の主体性、責任のありかたを示しているということです。これが解釈する主体ということであって、私たちが生きているということはこの解釈する主体でありつづけるということです。だから「それはあなたの感想でしょ」とかいう愚民たちには「自分で自分の感想をもってどこが悪い」と怒りをぶつけるべきなのです。そして実はこうした「あなたの感想でしょ」ではない世界を作り上げるものが学問であり、それをおこなう場所のひとつが大学であるはずです。そして皆さんはそこで四年間を過ごしてきました。なのでこの後、どのような人生があろうとも、とにかく生きている限り、皆さんは解釈をし続けてゆくのです。その意味で、もう少しいうと、大学を出た以上はある覚悟、つまり解釈をする覚悟のようなものがついてまわります。その覚悟をさらに言い換えると「価値の体系としての学問」でもあります。少し面倒なことですが、この価値の体系があるからこそ私たちの感想が単なる感想であることを超え、ある「意見」となるのです。大学で勉強した以上、その分野の体系的な学問に触れているはずです。そして解釈する主体であるという「覚悟」をもつということはまた、自分で自分に責任をもつということです。これもわかりやすくいうと「何があっても他人のせいにしない」ということです。いくら覚悟があっても、当然人間は失敗もします。だからこそ後悔に意味があるのです。後悔しても、あれもこれも自分のせいだったと思っている限りはどうとでもなります。生きてさえいれば、良いこともあれば悪いこともあるからです。「ああすればよかった」「なんであんなことをしたんだろう」など、いろいろ思います。しかしそれらもすべて自分が選んだことです。その意味では後悔とは過去の自分と今の自分が出会うことでもあります。いろんな選択肢令和4年度               8新潟国際情報大学学長 越智 敏夫新潟国際情報大学 学報 国際・情報 令和5年4月発行 2023年度 No.1

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