学報102号
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学長式辞卒業式令和5年度「因果関係」ラジカルにとらえ「コロナの4年間」問い続けよご卒業、おめでとうございます。今年大学を卒業される皆さんにとって、大学生活は「コロナの四年」だったことでしょう。2020年4月、本学に入学してみたものの、入学式もいきなり中止となりました。それどころか授業も開始されず自宅待機となったときにはいろいろ不安に感じられたと思います。4月7日には首都圏、関西圏、福岡県を対象区域として緊急事態宣言が出され、後に全国47都道府県に拡大されます。本学では教員、職員の協力のもと、授業をオンラインで開講するための準備を進め、なんとか連休前の4月27日にオンライン授業を開始することができました。そのあいだ皆さんはノートパソコンをいきなり渡され、オンライン用のガイダンスはあったものの、新入生として前期授業はすべてパソコンのディスプレイを見るという行為になりました。そういう状態で始まった皆さんの大学生活の大変さはその後も続きます。1年生の後期からは対面授業を始めることができたとはいえ、教室では座席数が減らされ、隣の学生との距離も離れていたはずです。ゼミナールにか。サークル活動もさまざまな点で制限されていたことでしょう。学食の椅子の数も減らされ、テーブルはアクリル板で仕切られ、友達とおしゃべりしながら食事することもできなかったと思います。その後、だんだんと普通の学生生活にもどっていきはしますが、やはりこの4年はあらゆる意味でコロナの4年だったわけです。そして問題はそれが皆さんにとってどういう意味をもつかということです。この4年、世界全体がコロナを経験してきました。それを皆さんは大学生として経験したのです。大学という場所はものごとを理屈で考える場所です。ですから皆さんはコロナを理屈で考えるという義務を負っているのです。では理屈でものを考えるということはどのようなことでしょうか。たとえばコロナのような現象は非常に複雑です。未知のウイルスが人類を殺戮する。その感染経路さえわかりにくいうえに、症状自体の個体差も大きい。ワクチンの開発にも時間がかかる。そうしたなかでなんらかの対策を講じないと死者はひたすら増大するだけです。暗中模索のなか、人類はなんとかコロナで死ぬ人間を減らそうとしてきました。それらの作業の大変さは、今日、ここにおいでになっている中原市長はじめ、新潟市役所の皆さんが体験されたとおりです。そしてこの4年間に私たちが経験したものはコロナだけではありません。皆さんの2年入ってもコンパや合宿は禁止され、まじめなことしかしてなかったのではないでしょう生の終わり、2022年2月にはロシア共和国がウクライナに侵攻します。また4年生の後期が始まった2023年10月にはハマスがイスラエルを攻撃し、その結果、イスラエルはガザ侵攻を開始します。これらの悲劇はいまも進行中で、その終焉の構図はまったく見えないままです。こうした4年間は皆さんにとってどのようなものでしたか。この4年間は私たち教職員にとっても大学とは何かということを考える時間でした。コンパや合宿のないゼミナールって味気ないような気もします。でもゼミナールの本質は酒を飲んだり、仲間と一緒に温泉に入ることではないはずです。オンライン授業にも便利なところがあるのは確かです。とはいえ、ふだんからすべての講義やゼミをオンラインにすればいいのではないかという意見には異を唱えたくなります。こうなるとそもそも教育とは何かという点にまで話はひろがります。そうした数多くの議論は大学の外にも波及します。コロナのもと、私たちはどのように行動すべきなのか。そもそもコロナに対して在進行形の災厄のなか、人々は対応に苦慮してきました。そうしたなかで何が合理的なのか、つまり何が理屈にかなっているのか、それらをめぐる議論は非常に複雑なものになります。専門家の意見はどこまで尊重されるべきなのか。そもそも専門家の意見さえ一致してないとき、専門家の声を政治家や官僚はどのように聞くべきなのか。またそれを市民にどのように説明すべきなのか。こういうとき、人間に対して誘惑するかのようにすり寄ってくるのが思考の単純化で何ができるのか、何をすべきではないのか。地方自治体や政府の予算や人員はどこにどう配分するべきか。そのような現す。「コロナウイルスは中国政府の陰謀である」「マスクなど役に立たない」「ワクチンは製薬メーカーの金儲けのための陰謀である」などなど。これらは特にネット上で散見される極端な意見ですが、極端な意見というよりはものを考えることを放棄しているのに近いものです。特に「コロナなんかインフルエンザと一緒」というような無知蒙昧な意見は、千葉真一と志村けんによって小学校時代を救われた私のような人間にとって絶対的に許せないものです。ウクライナ戦争にしても、ゼレンスキーが善人、プーチンが悪人というような二分法で理解したとして、それが戦争を終結させることになるのでしょうか。こうした愚かな考えを排除し、ものごとを原因と結果の関係、つまり因果関係として精緻に読み解くということが、ものを理屈で考えるということです。そしてそれらを考えるためには問題の根源まで、社会の根っこまで考える必要も生じてきます。それをきざに横文字でいうとラジカルな問いかけと呼びます。大学で学んだことはこの精緻にラジカルにものを考えるということのはずです。それらは細かい作業ですし、難しくて重要な問題ほど、答えがひとつになることはありません。そしてそれらをめぐる社会は時代のなかでつねに変化しつづけます。これらを経験することが同時代を生きるということです。ですから皆さんは幸か不幸か、「私の大学時代はコロナの4年間だった」とおそらくは一生言い続けることになるのです。そしてその経験について、またその意味について一生考え続けるのです。責任はもちませんが、それを考えるだけでも生きていく目的にはなります。ですから逆説的にいえば、生きてさえいれば、それでいいのです。生きているということは自分の過去の経験についてうだうだと考えることだからです。後悔することもあれば、なかったことにしたいこともあると思います。しかしそうした後悔こそが自我をつくります。永久に後悔していってください。どんな失敗をしても、ど              8新潟国際情報大学 学報 国際・情報 令和6年4月発行 2024年度 No.1新潟国際情報大学学長 越智 敏夫

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