個人史


1961
愛媛県S市で生まれる。
父、母、兄と4人家族。父親が土木関連の設計技師だったので、愛媛県内に限定はされていたけれど引越しは多かった。S市は両親の出身地で、そこで自分も生まれたものの、住んだことはない。生まれたあとはU町やI市で育った。当然、このころの記憶はあまりない。ただ、U町では町並(なぜか国鉄駅前の夜景)と近所の山田屋という饅頭屋の記憶はある。その近所のありふれた(ように見えていた)饅頭屋が今ではその「山田屋まんじゅう」を高級和菓子として全国のデパートで販売しているのだから、世の中、わからんもんである。

またI市では家の前に野菜を売りに来ていた軽トラックの下はどうなっとるんやろ、と思ってその下に入りこんどったら、商売の終わったおっさんは帰ろうとして、こっちは死にかけた。下から見上げたシャーシーはよく覚えている。結局、かすり傷だけですみ、こうして生きとります。

1965
愛媛県K郡O村S集落に転居。
父親が四国山地のなかの高い山に車で登るためのスカイライン道路の設計をすることになった。その設計事務所がおかれたのがO村S集落。農家の離れを借りて住んだ。この引越の印象も強い。I市から長い時間をかけてO村についたら、トラックに乗せたはずの三輪車がなくなっていて、泣いた。父の職場の同僚の人たちがピアノを運ぶのにもえらい苦労していた。県道に停めたトラックから家までの細い道をかつぎあげていたが、これは大変だったと思う。O村というのは本当に山のなかで、きれいな渓流の両岸の斜面にへばりついた(僕の印象では)ほとんど平地もないところだったが、ここでの5年間でものごころがついた。基本的な人格はここで形成されたと思う。よーするに猿である。うきき。O村の春夏秋冬の風景は今でも夢にでる。どの季節もきれいで、小学校にあがる前の子どもが遊ぶには申し分のないところだった。山や川や段々畑(となりの大家さん夫妻が農作業によく連れて行ってくれた)で、暗くなるまでよく遊んだ。隔週の日曜日、ピアノの練習で松山市に行くのも楽しかった。バスでの車酔いはつらかったし、ピアノの稽古自体もあんまり好きではなかったけれど、ピアノの稽古の後、今はなきスバル座やオリオン座という映画館で映画を観るのが楽しみだった。昼ごはんはこれもまた今はなき佰味(鯛釜飯と鶏レバーの唐揚げ)やロンドンヤ(ホットケーキと氷ロンドン)あたりで食べていたがそういうときも、うきーっとテンションはあがった。その頃は2階建てだった三越(今は地下+8階建てかな)の屋上で遊ぶのも好きだった。商店街での買い物も楽しかった。

ただ、このO村でも死にかけた。小学校にあがる前、ある冬の日の午後、父親の同僚のお嬢さん、Mちゃんの家に遊びに行った。O村の冬は寒かったのでもちろんすべての家にこたつがあった。越智の家は電気ごたつで、Mちゃんの家は練炭の掘ごたつだった。その日も寒かったので、Mちゃんの家で掘りごたつのなかに入り、探検ごっこのようなことをして遊んだ。薄暗い掘りごたつのなかでぼんやりと燃えていた練炭の記憶はある。きれいやねえ、などとMちゃんと話していたのだろう。どれくらいの時間、そこで遊んだかはおぼえてない。しかし家に帰ったら、急に目の前の柱が揺れ始めた。何が起こったのかわからんまま、「母ちゃん、柱が揺れとる」と言うたら、「Mちゃんの家で何してきたん?」と母が聞くので、「掘りごたつのなかで遊んどった」と答えたら、村の診療所にかつぎこまれた。結果、今こうして生きてます。母がすぐにMちゃんの家にも連絡したところ、Mちゃんも幸い、どうもなかった。今も生きてます。みなさん、一酸化炭素中毒には気をつけましょう。翌日、Mちゃんのお父さんが新巻鮭(O村ではとんでもない御馳走)を一本もって謝りに来た。が、こっちの親のほうが「うちの馬鹿(←わしのこと)がMちゃんを危ない目にあわせてすんません」と謝っていたのを覚えている。でも新巻鮭はそのままもらって家族で食べた。

1968
O村立S小学校入学。
渋い名前で、木造校舎の良い学校だった。というわけで、私は保育園も幼稚園も行ってないです。それはともかく、このとき一緒に入学した一年生は16人だった。3歳上で1959年の早生まれの兄の学年はミッチー・ブームの影響か、36人くらいだったと思う。ちなみに松下圭一の「大衆天皇制論」は『中央公論』1959年4月号掲載。

付記:2023年11月6日、2024年4月9日
理系の人たちと話すと「理系にもいろんな専門があるけど土木の人らは人間関係がちょっと違う」と言われたことが幾度かある。このO村S集落にあった設計事務所に勤めていた人たちの関係もかなり濃密だった。当時はそれが当たり前と思っていたが、あとから考えると地方自治体の職場としては例外的だったのかもしれない。父母が初めて仲人を務めたのも同事務所に勤めていた技師の方の結婚式だった。

年末になると事務所のおっさんたちが松山の県庁での忘年会に出かけて行って事務所を一晩留守にする週末がある。そういう晩にはO村S集落に残ったおばはんと子どもたちは事務所に泊まって遊んだ。道路のルート確定のためにテント泊をしながら山を測量する際の寝袋が事務所にはたくさんあって、子どもたちはそれに入って大騒ぎしながら寝た。おばはんらはひたすらおしゃべりをしていたのだろう。今の時代からすれば、県庁の出先の事務所で家族がああいうことを(それも職員がおらんまま)したのは問題だったかもしれないと思うけれど、事務所にみんなで泊まって遊んだあの夜は人生でもっとも楽しかった時間のひとつである。

スカイライン道路が完成し設計事務所を解散したあとも、皆さんとは文字どおり家族づきあいとなった。親たちは定期的に飲み会、食事会などを開催していた。それぞれの子どもも含めてかなりの多くの人数でO村に行ったことも(おそらく2回以上)ある。またそれぞれの子どもが成長して結婚する際には、それらの式にも相互に参加した。兄や僕の結婚式にも多くの元同僚の方々に参加していただいた。両方の会で民謡を披露してくれた方もいらっしゃいます。もちろん、みなさんも高齢化し、亡くなった方もいらっしゃいます。

母が他界したときも同僚の方々には通夜や葬儀を手伝っていただいただけでなく、実家に大量に置かれたあった植木鉢のたぐいの処分でも助けていただいた。特にYさんご夫婦はわざわざ軽トラックを借りてまで植物を引き取りに来てくれて、これは本当に助かった。ありがとうございました。そのあと、父が他界したときも多くの元同僚の方々が通夜と式に参列してくれ、上記のMちゃんも裏方を手伝ってくれた。

職場におけるこういう人間関係は一般的にはおそらく消えつつあるだろうし、父の他の職場も(同じ土木関係だったとはいえ)ここまでの人間関係はなかった。そうしたいわゆる濃密でゲマインシャフト的な人間関係が、職場というゲゼルシャフト的な空間に生じることについても、それが良いことかどうかの議論はあって当然だろうけれど、ただともかくこのO村の設計事務所が独特の意味を、今にいたるまでその構成員らに対して与えていたのは確実だと思う。

1970
松山市立U小学校に転校。
3年生の春、父親が設計していたスカイラインがほぼ完成したので、松山に引っ越して、U小学校に転校。道後温泉の近くの新しい小学校だった。学校には嫌な奴が多かったが、松山や道後の町は好きだった。うわぁ、都会だなあと思った(その後の人生で松山を出たあと、船橋、練馬、池袋、シカゴ、新潟、ニューヨーク、ノースカロライナのチャペルヒル、ロサンゼルスとうろちょろ住んでますが、それらのどこよりもこのときの松山のほうが都会だと感じました)。いちばんびっくりしたのは家の近所に「ペットセンターとよた」というペット屋があったこと。野生の王国のようなO村にはそんなもん、あるはずもなかった。あまりにびっくりしたので本気でポケットモンキーを買(飼)おうと思ったほどである。結局、そんなもの親が飼わせてくれるはずもなく、亀と金魚しか飼いませんでした。

ちなみに、このU小学校のときも死にかけた。小2までいたO村立S小学校の校舎はO中学校と並んで建っていて、そのあいだに小中共用のプールがあった。今はどうなっとるのかわからんが、当時このプールは小学校の低学年は使わせてもらえなかった。なので僕らの水泳の授業は学校の横を流れている川でおこなわれた。授業といいつつ実際は先生と一緒の川遊びである。浮き輪でぷかぷか流れてはしゃぐだけ。水は冷たかったけれど、これも楽しかった。さらには夏休み前になると村の大人が総出で学校より上流の川底も掃除してくれ、子どもたちはそこで遊んだ。ちなみにその川底をさらう作業を見物に行ったとき、水中から出てきた猪の巨大な頭蓋骨は今でもある種のトラウマになっている。『ブリキの太鼓』みたいでしょ。ともあれ夏休みもその川で毎日浮かんで遊んでいた。

そんな生活だったので僕は泳げなかった。母はそれを心配したのか、松山に降りてきた小3の夏休み、とつぜん僕に水泳学校に行けといった。三つ年上の兄はそこそこ泳げたはずだが彼も一緒に行けといわれた。 それで当時住んでいた道後から市内電車と郊外電車を乗り継いで毎日、港山の海岸まで兄弟で通った。愛媛新聞社主催「愛媛水泳学校」である。ちなみにそこで朝の挨拶やら準備体操の指導やらしつつ砂浜を毎日歩きまわっていたおっさんが校長の鶴田義行(1903-1986)だったと知るのはだいぶ後のことである。ともあれそこでまっくろに日焼けするうちに僕もそこそこ泳げるようになっていた。

おそらく修了日近くだったのだろう。たしか「自由遊泳」という時間があった。各自が勝手に泳いで砂浜に戻ってくるのである。小3の馬鹿がじゅうぶん泳げるようになったと過信してへらへら泳いでいたら、突然の波があったのか大量の水を鼻と口から同時に飲んだ。うつむいたまま息もできず体が動かなくなった。沖へ流されながらどうしようもないなあと思っていたら、だんだん体が沈み始めた。なんとか動いた片手を水中で適当に振ってみたら何かをつかんだので思いっきり引き寄せたら、紺色のスクール水着の背中側の下端だった。おそらくは6年生くらいの女子生徒だったのだろう。彼女はこちらの窮状を察して、「どしたん?」と言いながら水中から引き上げてくれた。

小3にとって高学年の生徒は遙かな大人である。お礼もいえず、ぜーぜー言いながら砂浜に上がってころがった。もちろん今となっては彼女が誰かもわからない。水泳指導の先生もすぐに見つけてくれていたかもしれない。でもあなたがいたおかげでこうして生きてます。本当にありがとうございました。

1971
I市立N小学校に転校。
4年生の5月という中途半端な時期に転校。製紙の町、I市は面白い町だった。5年生の一年間、担任だったK先生の影響強し。その先生にのせられて、水泳と勉強に邁進した。水泳もきつかったが、勉強もきつかった。よくあんなに勉強したと思う。あの1年の勉強で培った学力で高校卒業まで引っぱったと今でも信じている。大学院にいた頃でもあれ以上に勉強したことはない。ただ、そのK先生は今でも尊敬しているが、6年生になるときに松山に戻ってきて良かったと思う。2年間も担任してもらっていたら、ちょっと染まり過ぎていたんじゃないだろうか。あ、このころから田宮模型の影響をもろに受け、プラモデルにもはまりはじめた。『タミヤニュース』と『モデルアート』を愛読。『ホビージャパン』じゃないところが渋いだろう。

このN小学校でも死にかけた。2階建ての木造校舎だったので階段も木造だった。ちょっと説明が難しいけれど、1階と2階のあいだの階段は途中に踊り場があって降りる方向が入れ替わる造りだった。そういう階段を何というか知らない。ともかくその階段には木製の長い手すりがついていた。そうなると階段を降りるとき、志の高い(←もちろん冗談です)生徒たちは階段をいちいち歩いて降りずに、その手すりに乗ってすべり落りることを選択する。自分のお腹(なか)を手すりの上にあてて前屈の姿勢で手と足をぶらんとさせつつ、2階から途中の踊り場まで手すりの上を滑り降り、踊り場で下半分の手すりに乗り換え、また1階まで滑り降りる。それが生徒の高い志(←以下同文)の表現だった。

もちろん僕もそうしていた5年生のある日、給食も終わって2階の教室から運動場に遊びに行こうと、上半分の階段の手すりに自分のからだをのせて滑り始めた瞬間、体重を頭のほうにかけ過ぎたのだろう、そのまま下半分の階段の上に顔面から落ちた。何が起こったのかわからないまま、口のなかを切ったのか自分が吐き出した血の量と続けて出る鼻血の量にびっくりして階段の上にころがっていると、事態を聞きつけた担任のK先生が飛んできて、僕の胸ぐらをつかんで引き起こし、「この馬鹿たれがぁあ」と怒鳴りつけた。そのとき自分の足が階段から浮いたのを今でも覚えている。たまたまそのときの自宅はこのN小学校の隣だったので、おそらくは教員ではなく同級生が「越智君、階段から落ちたよ」と在宅していた母に告げたのだろう。母親も飛んできた。K先生の「越智君にはこのまま午後の授業を受けさせます」という発言に対して、母親が「すいませんが、一応病院には連れていきます」と言ったのも覚えている。そのあとはタクシーで病院に行き、いろいろ検査されたような気がするが、翌日からは授業に出た。とにかく首が痛かったし、からだの他の箇所もぎしぎしして動かないところもけっこうあった。また内出血した顔面についてAさんというクラスの女子生徒には「越智君、顔の色が毎日変わるねえ」と言われたけれど、なんとか通学した。打ちどころも良かったのだろうけれど、校舎が木造じゃなく鉄筋だったら死んでいたのかもしれない。そもそも木造じゃなければ階段はそういう構造になってないとも思うが、とにかく今、こうして生きてます。

1973
松山市立U小学校に再び転校。
6年の春、松山に出戻り。この一連の小学時代の転校も、今の人格に少しは影響を与えたと思う。どういう影響だったかは考えたくもないが。

1974
松山市立D中学校入学。
温泉街の中学だった。弱いくせに柔道部に入った。柔道の練習というのは圧倒的に地味で、よくもまああんなことを3年間もしていたと思う。練習後に温泉街の駄菓子屋で買い食いする豚饅のためだけにずっと練習していたような気もする。

1976
愛媛県立M高校入学。
自慢じゃないが勉強はせず、脳みそが溶けるほど遊んだ。いろんなものを飲んだので本当に脳細胞の一部は溶けたと思う。今となっては反省するべき点も多い日々だったかと思うが、あれはあれでよかった気もする。ここで小学校5年時の勉強の財産を使い果たし、当たり前のように大学受験に失敗。1年間の浪人へ。

1980
S予備校入学。
高校からの推薦枠で予備校に入学。普通の試験ではこの予備校も落ちていたと思う。総武線のS駅近くの学生寮からお茶の水に通った。はじめての東京生活。よく日曜日などは都内のいろんなところを散歩していた。でも先にも書いたように、O村から松山市に降りてきたときほどの「うわあ、都会だなあ」という感覚はなかった。今となっては不思議である。なんでだろ。住んでいたS駅近辺は静かで良いところだった。寮の前を耕運機が走っていた。

1981
立教大学法学部入学。 (このあたり以降は researchmap でも公表されているので実名であります)
入学時に政治学をやろうと決めていたわけではないし、大学院に行くつもりもなかった。世の中わからんもんです。結局5年間大学生として生活したが、人生でもっとも暇な日々だった。サークルも1年でやめたし、他にすることもなかったので映画と芝居と展覧会ばかり見ていた。この頃に見た映画と芝居と展覧会の数はちょっと想像を絶する。これも名画座の町、池袋に住んでいたことと無縁ではあるまい。大学1年のときは西武池袋線大泉学園、六畳一間のS荘というアパートにすんでいたが、2年生になって東池袋のA荘というアパートに引っ越した。五畳半の変形部屋。学生アパートにしては大きめの流し。風呂付でありながら、トイレは共同。とにかく古くて変なアパートだった。でも安いし便利なところにあった。サンシャイン60の隣、というよりは真下といったほうが正確か。まわりは雑司が谷霊園やら鬼子母神やら護国寺やら、いろいろとあって散歩には最適なところだった。それに何といっても風呂付である。当時は、風呂付のアパートに住んでいた学生なんか、ほとんどいなかったんじゃないか。結局、ここに12年ほど住んだ。家賃は、入った1982年に3万1千円。バブル経済の生成と終焉を経て、1994年に引き払うときでも3万5千円。どうだまいったか。でも雨漏りがする天井を見て、とある友人(米田、お前のことだ)はしみじみと驚いていた。

付記:2023年4月19日
↑↑↑とおちゃらけて池袋での生活面について書いておりますが、あるとき、あるところで当時の立教大学法学部で受けた教育について話す必要が生じ、そのためのメモを書いているうちにこれはどっかで残しとこ、と思い至りましたので、それをかなり省略した短文を、敬体文のまま以下載せておきます。

 当時の立教大学法学部では、まず入学すると「基礎文献講読」という基礎ゼミの選択を迫られます。90分のゼミを週2回、通年おこなうという、基礎ゼミとしてはかなりきついゼミでした。その基礎ゼミでは専任教員と助手が組になって教えていました。いろいろ考えて選択したのは政治過程論の五十嵐暁郎先生のゼミで、助手はオスマン・トルコ政治史が専門の鈴木董先生でした。このときのゼミ選択という経験は、その後、自分がカリキュラム編成に関わるときなど、いまだに多大な影響を自分に与えていることを実感します。2年ゼミも専任教員と助手が教えていましたが、こちらは週に一回で主として助手の方が教えていました。僕は政治社会学の栗原彬先生のゼミに入り、助手は日本の政治学の歴史を研究されている都築勉先生でした。3・4年の専門ゼミでは高畠通敏先生のゼミに入れてもらいました。
 ゼミと並んで講義では、日本政治思想史を神島二郎、東洋政治思想史を野村浩一、現代政治理論を高畠通敏、政治社会学を栗原彬、日本政治史を北岡伸一、政治過程論を五十嵐暁郎、西洋政治思想史を吉岡知哉といった専任の先生方に教わっています。法律系(のなかでそれなりにまじめに受講したもの)では法学原論を澤木敬郎、憲法を池田政章、民法と公害環境法を淡路剛久の各先生に教わりました。
 また当時の立教法学部には他学部の教員による法学部学生のための専門科目があり、西洋政治史を木村靖二、経済原論を西山千明の各先生に教わりました。また非常勤の先生も3・4年ゼミをいくつか担当しており、福田歓一、栄沢幸二といった学外の先生方のゼミにも参加しました。福田ゼミではウォルター・バジョットの英文を精読し、栄沢ゼミでは政治思想史の方法論に関わるものを読みました。
 一方、非常勤の先生による講義では、国際政治を高柳先男、中東政治を板垣雄三、比較政治を内山秀夫、アメリカ政治を五十嵐武士、日本政治論を内田健三、他にも様々な特論で、昭和期のファシズム思想を松本健一、政治運動論を菅孝行、ナショナルトラストを木原啓吉、戦争犯罪について内海愛子といった先生方に教わりました。
 また在外研究(サバティカル)に出られた先生の担当講義は他大学の先生が非常勤として教えられていたので、西洋政治思想史を先述の福田歓一、日本政治史を坂野潤治、政治社会学を山本哲士という先生方にも教わりました。これらは専任教員による他年度の講義も履修していたので、正確には重複受講となり卒業単位に算入されませんが、両講義とも専任教員の講義内容との差が面白く、とても勉強になりました。
 他学部受講として経済学部の住谷一彦、文学部の前田愛などの先生の講義にも出ました。住谷先生のヴェーバー解釈、また前田先生の文学理論はそれぞれとても勉強になった記憶があります。特に前田先生の授業は「時代の中で新しいことを言う」という感覚が濃厚でした。ただ前田先生の試験では「大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』について述べよ」という問題がでたので、答案として「辻邦夫と村上龍がベルリンの壁のうえで大江の政治観について語り合う」という架空対談を一生懸命(ノリノリで)書いているうち、ふと視線を感じて顔をあげたら、答案をじっと上から見つめる前田愛(あえて敬称略)の顔がありました。あのときの恐怖は他のものとは比べがたいです。ちなみに答案はあっさり落とされ、Dでした(笑)。
 文学部の他の科目としては無謀にも英文学科の同時通訳の演習にも入れてもらいました。いわゆるスパルタ式の授業できつかったですが、これはのちにとても役に立ちました。でも先生のお名前が思い出せません。ごめんなさい。
 一般教養では哲学と美学(とラテン語のほんの一部)を専任の加藤武先生に教わりました。この2科目半は一般教養とはいいながら合宿(益子に焼き物の勉強に行った)などもあって、専門科目とは異なる形で今の自分への影響は強いように思います。また一般教養部の非常勤講師だった蓮實重彦(あえて敬称略:再)の映画表現論は、面白いことは面白いので単位の取得後も毎年聞いていましたが、その影響についてはあまり考えたくありません。あるとき、マルクス・ブラザーズの『吾輩はカモである』を蓮實の解説付で、講義とは別に学内の大教室で上映したとき、彼だけが字幕より先にぐふふふと笑っていたことも忘れがたいです。
 また当時の法学部では単発の公開講座のようなものも多くあり、なかでも『精神史的考察』刊行後の藤田省三、『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』刊行後の広瀬隆の両先生の講義はとても印象深いものでした……というのも、両先生とも講義後の質疑応答で(僕としては)至極まっとうな質問をしたのに、なぜか(本当は理由もわかる気もする)お怒りになり、他の受講生の面前でこちらを痛罵されたからです。あの怒り方はないよなあ、と今でも思います。時代ですね、で済ますわけには、お互いいかないような気もしますけど。

以上です。それしてもこれを読むと、私は学部学生時代、異常に優秀な先生たちに教わっていたんだなあと実感します。自慢話をしているのではない、ということは読んでいただければわかると思います。また「それでこのざまかいっ」という批判はあえて受けます。

1986
立教大学法学部卒業。
慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻修士課程入学。

東池袋から三田まで、有楽町線と都営三田線を乗り継いで慶応に通った。最初は久しぶりのまじめな生活に疲れたが、当然のように、すぐ怠け癖がでた。学部学生の終わり頃から部屋で起きている時間のほとんどは本を読むような生活になっていたが、大学院に入ってそれに拍車がかかったような気もする。ただし政治学の本よりは他のものを読んでいた時間の方が長いとは思う。なんにせよ、テレビは嫌いになっていたし、ファミコンは自らに禁じていたし。読書以外にはすることがなかったのかもしれない。ちなみに誰かが部屋にいるときは酒ばっか飲んでました。

1988
修士課程修了。
博士課程入学。

あっという間の修士の2年間。本当にこれだけの勉強で博士課程に行っていいのか、と思ったのを憶えているが、この時の焦燥は執拗低音のようにいまだに続いている。博士課程に入ると、修士時代に比べて格段に暇になった気がしたので、相変わらず映画や演劇などにも行っていた。こんなことではいかん、と思ったのを憶えているが、この時の反省は執拗低音のようにいまだに続いている。

1992
同課程単位取得退学。
立教大学法学部助手になる。

まじめに働いた。

1994
シカゴ大学客員研究員になる。
シカゴ大学は24時間利用可能な巨大な図書館も使いやすかった。研究室も用意してくれた。そのとても快適だった研究室が入っている研究所は学内の便利な所に建っており、そのせいなのか、あるいは気を使ってくれているのか、いろんな人が空いている時間に遊びに来てくれた。今さらながら勝手なことを言うとあれは英語の勉強になりました。またシカゴという街自体もほんとに楽しいところだった。それらを言い訳にするわけじゃないけど、よく遊んだ。立教の助手時代にはまじめな日々を送ったが、この2年足らずのシカゴ生活は、また一気に怠け癖をつけた。ただ、あそこにいる間に読んだ本の量は自慢してもいいかなと少しは思うし、いろんな人との間でのややこしい議論の時間もかなり多かったなあとは思う、今日このごろ。

またこのとき自分の専門について勉強するだけではなくてアメリカの大学について知ろうと思い、シカゴ大学の歴史やらその特殊性やら他の大学との共通点やら、まわりの人からいろいろ教えてもらった。また大学とは何かみたいな研究会にも出たりした。自分の専門に直接関連するわけではないセミナーやワークショップだったけれど、それらもなかなか面白かった。

ただシカゴ大学のまわりは控えめに言っても治安が悪く、大学当局が発表する「今週の犯罪発生マップ」には「車上泥棒」とか「強盗」などにまじって「殺人」という単語もときどきのっていた。ちなみにこのころ自分はアパートから自転車か徒歩で大学に通っていて、普段は、

・アパートの部屋の鍵
・アパートの建物の玄関の鍵
・アパートの自転車置き場の入口の鍵
・自転車の鍵
・研究室の鍵
・研究室が入っている研究所の鍵
・研究所が入っている建物の玄関の鍵

といつも7個の鍵をじゃらじゃらさせて持っとりました。それまでの東京生活はアパートの部屋の鍵1個だけで、立教の助手になってからそれに助手室の鍵が加わったくらいなので、この鍵じゃらじゃら生活は自分の住んでいる場所の治安の悪さを語っているようで、慣れるまでに時間がかかった。結局、シカゴにいるあいだ個人的には大きな怖い目にあうことはありませんでした。

付記:2024年4月22日
とある学生から質問を受けたので、このシカゴにいるときの生活費について。正直に書くとフルブライトは面接までいったものの最終選考で落ちた。落ちた理由については今でもときどき考えることがある。しかし他のふたつの財団からフルブライトほどの額ではないものの奨学金をもらうことができた。感謝しております。それらの奨学金と立教の助手時代の貯金で暮らした。それにこのころは(今のところ)歴史上もっとも円高となった時期で、瞬間的には1ドル70円台にまで円が上がった。奨学金も日本円でもらっていたので本当に助かりました。

1996
新潟国際情報大学 情報文化学部 情報文化学科(現:国際学部 国際文化学科)に赴任。
帰国した翌日に初めて新潟というところに来た。新潟は住み良いところであります。まあ、そりゃあ生きていればいろいろありますが、まじめに働いているつもりです。

1997
結婚した。
「何も言うことはない。」Copyright(c)天龍源一郎

2002
ニューヨーク大学研究員になる。
ニューヨーク大学(NYU)のICAS(The International Center for Advanced Studies)という研究所が主催する3年計画の共同研究"The Project on the Cold War as Global Conflict"の2年目"Year 2 (2002-2003): Everyday Life, Knowledge, Culture"に研究員として参加。ICASからは毎月の給与も含めて物心両面から手厚く援助してもらった。この頃すでにニューヨーク、特にマンハッタンの物価はとんでもないことになっていたので本当に助かった。グリニッチ・ヴィレッジにあるNYUのアパートにも住まわしてくれた。研究所まで徒歩3分。PC付の研究室ももらった。南向きの部屋で、最初の週、隣の部屋のラテンアメリカ政治研究者が挨拶に来てくれ、「去年の9月まではこの窓からワールド・トレード・センターが見えていたんだよ」と言ったとき、どういう場所に来たのかよくわかった気がした。

オフィスのスタッフもほかの研究者もみんないい人たちばかりだった。なんでこんなによくしてくれるのだろうと不思議に思うほどだった。こちらの義務としては週2回のワークショップに参加して発言すること。また1年のうち1回は自分の研究報告をすること。週2のワークショップにはメインとサブがあり、メインの方はかなり長時間で、毎回、ケーキやらクッキーやら喰いながら4時間くらいやってたような気がする。僕は8月に赴任し、自分のメインの方の報告は翌年の3月という予定だったので余裕こいていたら、あっというまに1月になり、焦った。

前回のシカゴのときは単身者として生活したけど、こんどは夫婦での生活。両方の都市とも面白く、「よそ者」にやさしいところだったが、いろんなところでだいぶ違った印象を受けたのは、シカゴ(大学)とニューヨーク(大学)の違いだけじゃないと思う。ただ、あたりまえだけど住んでみればニューヨークでも日常は日常っす。朝、ゴミも捨てれば、夜、アパートの地下のコインランドリーで服も洗う。でもそんななか最大の自慢は、あの怖いおねーさんから"Love for Ochi, Marianne Faithfull"というサインをCDにもらったことかなあ。

2003
秋、新潟国際情報大学に戻る。
当時メリーランド大学で政治学を教えていた友人に誘われて、日本に帰国する前にドイツのデュイスブルクで開催されるセミナーで研究報告をすることになった。そこでニューヨーク→ヨーロッパ→日本という片道切符を探したところ、JFK→ヒースロー→成田というヴァージン航空の安いチケットがあった。それにヒースロー→ブリュッセルという安いチケットを買い足し、大陸ではユーレイルパスを使って夫婦でけっこうあちこちうろうろした。ただ、研究報告までは自分のペーパーをぎりぎりまで書き直していた(いつものことです)ので、妻が一人で街中を観光するあいだ、こっちはホテルの部屋で泣きながらPCのキーボードをたたいていた。

結局、ひと月ほどヨーロッパにいて、イギリス、ベルギー、オランダ、ドイツ(ここで研究報告)、フランスとまわった。ミュンヘンでは別のセミナーにも参加した。そのセミナー終了後、上記の淡路剛久先生ご夫妻とわれわれ夫婦の4人でノイシュヴァンシュタイン城を見物した。なんでそんなことになったのか、細かい経緯は覚えてないけれど、あれも楽しかった。

旅行の最後、フランスのサン・マロからイギリスのプールにフェリーでもどった。そこから列車でヒースローに着き、成田行きの飛行機に乗ってみたら、ほとんど乗客がいなかった。もちろんエコノミーだったけれど、Boeing 747のまんなかの4席と右窓側の3席を僕ら2人で使った。他の席もすかすか。飛行機が離陸したころ気づいたのはそれが9月11日の便だったとういことで、あれから2年かあ、としみじみした。乗務員さんたちもあっというまに御飯も配り終え、暇で暇でしょうがないといいつつ愛想がよかったし、別に怖いとは思わなかった。成田に着いて、飛行機を乗り換え新潟空港に着き、自宅に荷物を置いたらすぐに近所の宝寿司に行った。

2017
ノースカロライナ大学チャペルヒル校客員研究員になる。
父母や義母の予期せぬ逝去などの私的事情、また本務校内の組織的変化やら、ちょっとしたことがあって、突然の在外研究決定。現役のあいだはこれが最後の在外研究かという感もあり、前々回のシカゴ大学(中西部)、前回のニューヨーク大学(東海岸)とは違う場所の大学に置いてもらおうと(いうことだけが理由ではありませんが)、南部と西海岸へ。

まずは南部。8月、夫婦2人、スーツケース4個だけを持ってノースカロライナ州へ引越し。新潟空港-成田も国際線扱いにしてくれるので4個のスーツケースも追加料金なし。その手続きをしてくれたANAの地上係員が本学の卒業生のMさんでした。ワシントンDC経由でノースカロライナのローリー・ダーラム国際空港に着いて出てきたスーツケースを見たら、小さいけれどきれいなタグが付いていて、「越智先生、〇〇(←妻の名前)さん、アメリカでもお元気で」とMさんの手書きの文字。うれしかったなあ。そうして着いたノースカロライナ大学チャペルヒル校でも、皆さんにとても親切にしてもらった。北米大陸最古の公立大学とのこと。PC付の研究室もとても歴史のあるきれいな建物内にもらった。図書館も使いやすく、この研究室でそのときに抱えていた単著の校正をかなり進めることができた。

大学のあるチャペルヒルという街だけでなく、ノースカロライナ州近辺はほんとうに楽しく美しいところで、初めてアメリカの運転免許を夫婦で取り(旅行者でなく居住者の場合、ほとんどの州で国際免許証は役に立たなくなる)うろうろした。州内では西のほうのアッシュヴィル(トマス・ウルフの生家には行ったのにその近所のムーグ社に行くのは忘れた。わしらの世代はモーグとは言わん)やグレート・スモーキー・マウンテン国立公園(野生の熊を生まれて初めて見た)、東のほうの港町ウィルミントンやら。州境を越えてヴァージニア州のワシントン・アンド・リー大学で政治学を教える友人宅なども訪ねたあと、海岸線のほうに移動し、コロニアル・ウィリアムズバーグやノーフォークなどにも行った。ただそうやってうろうろしているとき、車で何時間走っても風景が変わることのない広大な綿花畑など、多くの奴隷制の名残に遭遇し、どき、とすることも多い。当然、こっちも有色人種だし。

2018
カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)客員教授になる。
2017年の年末、チャペルヒルを発ち、フロリダのランタナ(マイアミの北、ウエスト・パームビーチの近く。なのでドナルド・トランプの家であるマー・ア・ラゴも見に行った)にいる友人夫妻を訪ねる。Air B&Bを使って契約した海岸近くの一軒家に1週間ほど滞在。海で泳いだり、ビール飲んだり、レンタカーで近郊をうろうろした。借りた家の近所(アルコールを飲んでも歩いて帰れる)にペルー料理の店があり、ここで食べたセヴィーチェは本当においしかった。新鮮な生魚を喜ぶのは日本人だけではありまへん、ということを再認識した。

と、フロリダで遊びたおしたあと、飛行機でロサンゼルスへ。とにかく際限なく水平方向に広がっている街で、UCLAもでかいキャンパスだったけれど、ここでも人々から望外の親切な対応をしてもらった。PC付のとても使いやすい専用キャレルも用意してくれた。その建物の隣の研究図書館(これも快適)も使いつつ、UCLAの大学院生の論文ドラフトにコメントなどしているうちに、上記単著の校正をなんとか終了させることができた。政治学関連の図書もすぐに借りられて本当に助かった。ありがとうございました。

ここでもレンタカー生活。ノースカロライナ州で運転免許を取っていたおかげでカリフォルニア州の免許センターでは実技試験が免除された。ラッキー。ロサンゼルスの市街地での実技試験なんか、想像しただけで悪夢である。ちなみに夫婦ともにこの1年間のアメリカ生活で一度も交通事故を起こさなかったのは奇跡に近い。運転がうまいわけでは決してない。特にロサンゼルスの高速道路網はいろんな意味で異常だと思う。走っとって事故を起こさんのが不思議なくらい。またニューヨーク州北部に住む恩師の家を車で訪問したときも、JFK空港やマンハッタンあたりの道路の造り、運転の作法、その他、そりゃあ事故だらけになるわいなあ、と恐怖し、うんざりした。よくもまあご無事で、と思う。

2018
秋、新潟国際情報大学に戻る。
アメリカで1年暮らし、日本に帰るときにはスーツケースが5個になっていた。ロサンゼルス空港(LAX)で追加料金を払おうとしたら、「このうちひとつは機内に持ち込んでいいよ。そうしたら余分なお金は払わなくていいし」と言ってくれた。ということで今回の1年間のサバティカルの引越し費用はかなり安く抑えることができたような気がする。物価は高かったけど。それはともかく無事に帰国。このときもLAX→成田→新潟と乗り継ぎ、自宅に荷物を置いてすぐに宝寿司、という2003年の秋と同じことをしておりました。進歩ないです、わしら。

2022
新潟国際情報大学学長になる。
“I’m going to make him an offer he can’t refuse”とドン・ビトー・コルレオーネは語っておりましたが、自分としてはそんなことを言われた感じではあったんですよ。これもまたお察しいただければ幸甚です。

そんで、 現在に至る、 と。それにしても、なんかこうして書くと中学入学以降はえらく平板な気がする。


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